仕事の大変さも楽しさも、忘れられなかった!
歯科衛生士になって最初の5年は、本当にキツかったです。新卒で入った医院は先生1人、私1人。受付から診療からすべてを2人で回していました。相談する仲間や先輩はいないし、わからないことがあって先生に聞いても「プロなんだから自立して」と言われてしまうし。今ほどインターネットも普及していなかったので情報もなかなか得られず、それこそタフトくらぶだけが救いでしたね。ほかの歯科衛生士さんの思いや考え方を読んで、「今ここには私しかいないけれど、みんな全国でがんばっているんだ!」って励まされていました。
なかでも辛かったのは、歯科衛生士として「歯を守る」という結果をちゃんと出せなかったことです。とにかく教科書通りにSRPやTBIをやってみて、もちろん回復する人もいるのですが、一定数の人は予後がうまくいかなかったり、むし歯ができてしまったり……。自分なりに勉強はしているつもりでも、そもそもその情報が正しいのかどうかもわからないんですよね。臨床に出て5年が経つ頃には、心身ともに限界がきていました。
そこで、一度歯科衛生士の仕事から離れることに。とりあえずは生活のため、まったく違う仕事に就いたりもしました。ところが1年くらい経った頃に、ふと思ったんですよ。「歯科衛生士は大変だったけど楽しかったな」って。不思議ですよね、当時は「ようやく解放されるー!」って思っていたのに。でも、やっぱり仕事自体はおもしろかったし、患者さんとコミュニケーションをとる時間も好きだった。現場に戻りたいという気持ちが、日に日に大きくなっていきました。
歯科衛生士の仕事は、人間教育そのもの
それから復帰して、フリーランスになって。セミナーや勉強会にもたくさん参加しましたが、予防に関しては結局正解が見つからないままでした。情報があふれる時代になったことで、逆に混乱してしまうこともありましたね。そんななかで、歯科衛生士の仕事に対しての考え方がガラッと変わるきっかけになったのが、ある書籍※との出合い。今まで患者さんの健康を守れなかった原因のひとつが、クッキリと見えてきたんです。
その本を読んでハッとさせられたのは、自分がいかに「プロとして」という言葉に縛られていたのかということ。医療人として正しく施術をして、エビデンスがきちんと証明されていることを提供する。それが私の使命なのだと思っていました。でも、むし歯や歯周病って生活習慣病なので、医療的なことを完璧に網羅していればOKというわけではありません。外科みたいに切って修復して終わりじゃなく、患者さんの健康観を上げ続けることが最大の課題。主役は患者さんですから、私一人ががんばっても意味がないんです。歯科衛生士の仕事って医療の提供でありながら、人間教育に近いものがあるんですよね。
たとえばこちらがアプローチをしても響かない時、「伝え方が悪かったのかな」とかいろいろ考えます。だけど、患者さんには患者さんの人生があって、飼い犬の調子が悪くて時間がなかったり、子どもの受験があって自分のケアどころじゃなかったり。私たちの提案を受け入れられないステージっていうのが必ずあるんですよ。
そういう時に無理やり介入して、嫌な気持ちになって通ってもらえなくなってしまったら、むし歯や歯周病になるリスクは確実に上がります。正しいことを伝えるのはもちろん大切だけど、やる気になるまで、こちらの話に耳を傾けたくなる時が来るまで、伴走し続ける。その重要性に、本を通して改めて気付かされました。
※『MI 世界の医療界が変わった、MIの“問いかけ話法”』…世界各国のあらゆる分野で使われるコミュニケーション手法「MI」について、歯科向けに書かれた本の翻訳版。患者さんの意欲を引き出すコミュニケーションが学べる。
ゲームと同じ。工夫してクリアするのが楽しい
患者さんはそれぞれ、性格も口腔内も、癖も生活環境も全然違います。もっと言えば、1日の中でも機嫌や体調が大きく変動することだってあります。そういう一人ひとりの心や背景を読みながら、生涯健康でいてもらうために自分は何ができるのかを考える。もはや、私たちの仕事に正解なんてないんです。
そう考えられるようになってからは、気持ち的にもすごく楽になりましたね。「今日こそ説得してフロスを取り入れてもらうぞ!」と意気込むこともなくなり、おおらかになったおかげか離脱する患者さんも少なくなってきて。最近は、正解が見つからないことこそ、この仕事の魅力なんだと思うようになりました。ゲームと一緒で、すぐにクリアできて同じコースを辿るんじゃつまらないじゃないですか。いろいろアイテムを駆使しながら、またちょっと難しいことに挑戦するのが楽しいんです。
私たちが今までしてきたのは治療と予防に関する勉強が中心でしたが、これからはもっと“患者さん側の勉強”が必要になってくるのかもしれません。歯科衛生士の仕事にゴールはない、生きている限りアップデート! 経験を重ねれば重ねるほど、人と向き合う深みもわかってきます。だから、この仕事は辞められないんです。
<歯科衛生士・川田の編集後記>
あんなに嫌だったはずなのに、離れてみると「やっぱり楽しかった」と思う。思いどおりにならないことが多いのに、そこが面白くてやめられない。そんな井上さんの言葉を聞き、歯科衛生士の仕事は、とても人間らしく奥行きのあるものだと感じました。そしてこの仕事を選び、迷いながらも歩んできた自分自身のことも、少し誇らしく、愛おしく思えるように。そんなあたたかな気持ちになるお話でした。